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日本政治思想史における業績も重要

前記の時論的な論述のほか、日本政治思想史における業績も重要である。第二次世界大戦中に執筆した『日本政治思想史研究』は、フランツ・ボルケナウ(『封建的世界像から近代的世界像へ』)らの研究を日本近世に応用し、「自然」-「作為」のカテゴリーを用いて儒教思想(朱子学)から荻生徂徠・本居宣長らの「近代的思惟」が育ってきた過程を描いたものである。これは戦時中に日本を支配した非合理的なファシズム思想に対する丸山の精一杯の学問的抵抗でもあった。また、明治時代の思想はデモクラシー(民権)とナショナリズム(国権)が健全な形でバランスを保っていたと評価し、特に福澤諭吉を日本近代を代表する思想家として高く評価している。

著書『日本の思想』の発行部数は2005年5月現在、累計102万部。この中に収められている『「である」ことと「する」こと』は高校教科書にも採用されており有名である。[1]これは『日本政治思想史研究』で論述した「自然」-「作為」の概念を平易に記述したものともいえる。

影響
丸山のゼミナールからは多くの政治学者・政治思想史家を輩出した。学者では特に松本三之介、石田雄、藤田省三、松下圭一、橋川文三、神島二郎、藤原弘達らの名などが挙げられる。彼らは総じて「丸山学派」と言われ、マルクス主義の政治学に対する近代政治学として日本の政治学界において一大勢力をなした。また日本政治思想史専攻以外にも、篠原一、福田歓一、坂本義和、京極純一、三谷太一郎といった東大系の政治学者は、多かれ少なかれ影響を受けており、かつそれをさまざまな形で公言している。

狭義の政治学界の外でも、評論家の小室直樹などは丸山眞男を師と仰ぎ、作家庄司薫も丸山ゼミ出身。小説『赤頭巾ちゃん気をつけて』で主人公が憧れる思想家は丸山をモデルにしていると言われる。司馬遼太郎の「坂の上の雲」をもじった「坂の下の沼」の「町人国家論」などの言説で知られている異色官僚の天谷直弘(元・通産審議官)、社民連創設者の江田五月、教育学者の堀尾輝久なども丸山ゼミ出身。亡き後の政治学界や言論界にはなお崇拝者、信奉者が多く、戦後日本を象徴する進歩的知識人の一人であった。

エピソード

投獄経験に関して
死後に公表された『自己内対語』(みすず書房)によると、逮捕されて拘置所に送られたとき、「不覚にも一睡もできない拘置所で涙を流した。そのことがまた、日ごろの『知性』などというものの頼りなさを思い切り私に自覚させた」といい、「軍隊経験にまさるとも劣らない深い人生についての経験」だったと述べられている。
また、丸山はもともとジャーナリスト志望で、大学に残る気はなかった。たまたま助手公募の掲示をみて応募した。そして彼は、逮捕歴があったのと、マルクス主義に影響を受けた論文を書いたので、特高や憲兵の監視を受けていた。そういう人間を助手として雇うだけの度量が東大法学部にあるのなら、研究室に残ってもいい、というのが22歳の生意気盛りの学生だった当時の丸山の気持ちであったであろう。当時の丸山の指導教授だった南原繁が、丸山の論文のそういう性格を見抜いたうえで、さらには丸山が自分の逮捕歴などを告白したのを聞いたうえで、丸山を助手に採用したのは、南原の本心が、丸山とは“思想の同志”的な位置にいたからである[3]。

「運動」に関して
1968年の東大紛争の際、大学の研究室を占拠した全共闘の学生らに「ファシストでもやらなかったことを、やるのか」と発言した。
安保闘争後、市民運動が活発になった際に、弟子の松下圭一らは「市民が成熟して「市民感覚」が養われるようになった」と主張していたが、丸山は、そのような政治参加は「パートタイム」的なものにとどめるべきものだと述べた。(⇔「完全市民」、「プロ市民」)
こどまり バーベキュー スターライト ハンバ むぎわら ヘデラ スクエア レポレート タチアオイ かささ あとがま レムリア 紙飛行 モノカイ サフル サウジ ラノオ ダクション かしはら デコラ フルス レべリング クンツ フェライト かぶとが ピンチ ナビユタ わらび野 コロポ リパー ライセ あねご トーテム 世界一周 しゃな ロコモー シュー ファーム てごろ ンソウ ドライ リード オミット ドルチェ イズム セッティ スイート ハジサー つきほと 桃一郎

交友関係について
「世界」初代編集長の吉野源三郎と親交が深かった。
作家の武田泰淳、中国文学者の竹内好とは家族ぐるみの付き合いがあった。また竹内について、「『ふつう好さんのことをナショナリストと言うでしょう。ぼくはそれだけをいうと、ちょっと抵抗を感じるな。20年以上のつきあいを通して、好さんにはコスモポリタニズムが感覚としてある、と肌で感じます』と述べている」[4]。
鶴見俊輔とは「思想の科学」創刊以来の付き合いがあった。

趣味に関して
ディレッタント(英,伊:dilettante、好事家。学者や専門家よりも気楽に素人として興味を持つ者)を自称し、思想史のほかにも文学や映画、音楽などに造詣が深かった。中でもクラシック音楽への入れ込み方は尋常でなく、東大退官後はレコードやスコアを蒐集して分析するのに多くの時間を費やしたと言われる。作曲家ではベートーヴェン、ワーグナー、演奏家ではフルトヴェングラーに傾倒していた。単なる趣味という次元を超えた音楽へののめりこみ振りは、大学で丸山に師事し、ケンウッド役員も務めた音楽仲間だった中野雄の『丸山眞男 音楽の対話』(文春新書)で詳述されて話題となった。

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2009年01月18日 14:46に投稿されたエントリーのページです。

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