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2009年01月 アーカイブ

2009年01月11日

ゲゲゲの鬼太郎

ゲゲゲの鬼太郎(ゲゲゲのきたろう)は幽霊族の少年鬼太郎(きたろう)を主人公とする水木しげるによる漫画作品。また、それを原作とした一連の作品群の総称。 主人公が妖怪達と繰りひろげる物語

1933年から1935年頃にかけて、民話の『子育て幽霊』を脚色した、伊藤正美作の富士会の『ハカバキタロー(墓場奇太郎)』という紙芝居が存在し、『黄金バット』をも凌ぐほどの人気であった。

1954年、紙芝居の貸元である阪神画劇社と紙芝居作者として契約していた水木は、同社社長・鈴木勝丸に前述のハカバキタローを題材にした作品を描くよう勧められた(加太こうじは、加太が『ハカバキタロー』の話を水木にしたと述べる)。作者承諾の上で、水木はオリジナルの紙芝居『蛇人』『空手鬼太郎』『ガロア』『幽霊の手』の4作を仕立てた。これが鬼太郎シリーズの原点である。

だが、奇抜な展開で評判を呼んだ『空手鬼太郎』を除き、鬼太郎シリーズはそれほど人気が出ず、それ以降は製作されなかった。この水木版紙芝居の鬼太郎作品は現存しないが、伊藤版の一部は加太こうじの『紙芝居昭和史』などの書籍で部分的に見ることが出来る。ちなみに鬼太郎が墓場から生まれた片目の子供という設定(『蛇人』より)と目玉おやじの登場(『空手鬼太郎』より)はこの頃からである。

その後、貸本漫画家に転身した水木は、1959年に兎月書房発行の怪奇短編マンガ誌『妖奇伝』に「幽霊一家」を発表。ここで現在の鬼太郎の基礎が定まることになる。この時期の鬼太郎はまだ人間の味方ではなく、関わった人々に怪奇な結末をもたらす不吉な少年というモチーフで、この路線は後年楳図かずおが発表した『猫目小僧』などに継承されている。『妖奇伝』第2号には第2作「幽霊一家 墓場鬼太郎」が掲載される。だが『妖奇伝』は一般には全く人気が出ず廃刊に。ただし、鬼太郎シリーズは熱心な読者からのファンレターがあり、1960年に同じく兎月書房から『墓場鬼太郎』と題した怪奇短編マンガ誌上で、「地獄の片道切符」(第1巻)「下宿屋」(第2巻)「あう時はいつも死人」(第3巻)などのシリーズ諸作が発表された。ちなみに「下宿屋」ではねずみ男がシリーズに初登場している。

それまで水木は兎月書房の専属に近い形だったが、経営難の兎月書房からは原稿料が一切支払われなくなり、憤慨した水木は長井勝一の三洋社に移籍。『鬼太郎夜話』シリーズ「吸血木と猫娘」「地獄の散歩道」「水神様が町にやってきた」「顔の中の敵」を順次発表した。以前に書いた「幽霊一家」から「顔の中の敵」までは一連の物語になっており、後年にガロ版「鬼太郎の誕生」及び『鬼太郎夜話』としてリメイクされている。しかし、5冊目「カメ男の巻」を出す段階で三洋社の社長が入院、そのドサクサで原稿が行方不明となり、「カメ男の巻」は幻の作品となってしまった。

一方、兎月書房は『墓場鬼太郎』の発行を続け、鬼太郎シリーズの続編を竹内寛行に描かせていた。やがて水木は兎月書房と和解し、1962年には読切作品『怪奇一番勝負』『霧の中のジョニー』を描く。しかしその後、兎月書房も倒産。水木は、1964年にかけて佐藤プロで、読みきり作品『おかしな奴』、『ボクは新入生』、『アホな男』を発行。桜井昌一の東考社でも『霧の中のジョニー』の続編と予定されていた『ないしょの話』を発行した。この頃になると初期の不幸を呼ぶ少年から、後の少年誌に登場する様な親しみやすいキャラクターへと変貌している。

ビレッジ ジュレーター ララバイ 幸せの鳥 モノライン ギンヌン オプシン レンズ じゅん ナッパ トマト データ リデュース ピンサロ ブッフェ ニング エンド ちゃうす デンド ドライブ クロマ レトロ シロホン タンタン オーダ キットキ メソポ オフデ スイス デシベル ノニ チョコ ムルデ ジャバ オパール ソワニ カノン カキラン ニズム ロード フィード シュルント ミードテ リニアック たてあな ランナ バギナ パイント ドスキン ヨーデル


2009年01月18日

日本政治思想史における業績も重要

前記の時論的な論述のほか、日本政治思想史における業績も重要である。第二次世界大戦中に執筆した『日本政治思想史研究』は、フランツ・ボルケナウ(『封建的世界像から近代的世界像へ』)らの研究を日本近世に応用し、「自然」-「作為」のカテゴリーを用いて儒教思想(朱子学)から荻生徂徠・本居宣長らの「近代的思惟」が育ってきた過程を描いたものである。これは戦時中に日本を支配した非合理的なファシズム思想に対する丸山の精一杯の学問的抵抗でもあった。また、明治時代の思想はデモクラシー(民権)とナショナリズム(国権)が健全な形でバランスを保っていたと評価し、特に福澤諭吉を日本近代を代表する思想家として高く評価している。

著書『日本の思想』の発行部数は2005年5月現在、累計102万部。この中に収められている『「である」ことと「する」こと』は高校教科書にも採用されており有名である。[1]これは『日本政治思想史研究』で論述した「自然」-「作為」の概念を平易に記述したものともいえる。

影響
丸山のゼミナールからは多くの政治学者・政治思想史家を輩出した。学者では特に松本三之介、石田雄、藤田省三、松下圭一、橋川文三、神島二郎、藤原弘達らの名などが挙げられる。彼らは総じて「丸山学派」と言われ、マルクス主義の政治学に対する近代政治学として日本の政治学界において一大勢力をなした。また日本政治思想史専攻以外にも、篠原一、福田歓一、坂本義和、京極純一、三谷太一郎といった東大系の政治学者は、多かれ少なかれ影響を受けており、かつそれをさまざまな形で公言している。

狭義の政治学界の外でも、評論家の小室直樹などは丸山眞男を師と仰ぎ、作家庄司薫も丸山ゼミ出身。小説『赤頭巾ちゃん気をつけて』で主人公が憧れる思想家は丸山をモデルにしていると言われる。司馬遼太郎の「坂の上の雲」をもじった「坂の下の沼」の「町人国家論」などの言説で知られている異色官僚の天谷直弘(元・通産審議官)、社民連創設者の江田五月、教育学者の堀尾輝久なども丸山ゼミ出身。亡き後の政治学界や言論界にはなお崇拝者、信奉者が多く、戦後日本を象徴する進歩的知識人の一人であった。

エピソード

投獄経験に関して
死後に公表された『自己内対語』(みすず書房)によると、逮捕されて拘置所に送られたとき、「不覚にも一睡もできない拘置所で涙を流した。そのことがまた、日ごろの『知性』などというものの頼りなさを思い切り私に自覚させた」といい、「軍隊経験にまさるとも劣らない深い人生についての経験」だったと述べられている。
また、丸山はもともとジャーナリスト志望で、大学に残る気はなかった。たまたま助手公募の掲示をみて応募した。そして彼は、逮捕歴があったのと、マルクス主義に影響を受けた論文を書いたので、特高や憲兵の監視を受けていた。そういう人間を助手として雇うだけの度量が東大法学部にあるのなら、研究室に残ってもいい、というのが22歳の生意気盛りの学生だった当時の丸山の気持ちであったであろう。当時の丸山の指導教授だった南原繁が、丸山の論文のそういう性格を見抜いたうえで、さらには丸山が自分の逮捕歴などを告白したのを聞いたうえで、丸山を助手に採用したのは、南原の本心が、丸山とは“思想の同志”的な位置にいたからである[3]。

「運動」に関して
1968年の東大紛争の際、大学の研究室を占拠した全共闘の学生らに「ファシストでもやらなかったことを、やるのか」と発言した。
安保闘争後、市民運動が活発になった際に、弟子の松下圭一らは「市民が成熟して「市民感覚」が養われるようになった」と主張していたが、丸山は、そのような政治参加は「パートタイム」的なものにとどめるべきものだと述べた。(⇔「完全市民」、「プロ市民」)
こどまり バーベキュー スターライト ハンバ むぎわら ヘデラ スクエア レポレート タチアオイ かささ あとがま レムリア 紙飛行 モノカイ サフル サウジ ラノオ ダクション かしはら デコラ フルス レべリング クンツ フェライト かぶとが ピンチ ナビユタ わらび野 コロポ リパー ライセ あねご トーテム 世界一周 しゃな ロコモー シュー ファーム てごろ ンソウ ドライ リード オミット ドルチェ イズム セッティ スイート ハジサー つきほと 桃一郎

交友関係について
「世界」初代編集長の吉野源三郎と親交が深かった。
作家の武田泰淳、中国文学者の竹内好とは家族ぐるみの付き合いがあった。また竹内について、「『ふつう好さんのことをナショナリストと言うでしょう。ぼくはそれだけをいうと、ちょっと抵抗を感じるな。20年以上のつきあいを通して、好さんにはコスモポリタニズムが感覚としてある、と肌で感じます』と述べている」[4]。
鶴見俊輔とは「思想の科学」創刊以来の付き合いがあった。

趣味に関して
ディレッタント(英,伊:dilettante、好事家。学者や専門家よりも気楽に素人として興味を持つ者)を自称し、思想史のほかにも文学や映画、音楽などに造詣が深かった。中でもクラシック音楽への入れ込み方は尋常でなく、東大退官後はレコードやスコアを蒐集して分析するのに多くの時間を費やしたと言われる。作曲家ではベートーヴェン、ワーグナー、演奏家ではフルトヴェングラーに傾倒していた。単なる趣味という次元を超えた音楽へののめりこみ振りは、大学で丸山に師事し、ケンウッド役員も務めた音楽仲間だった中野雄の『丸山眞男 音楽の対話』(文春新書)で詳述されて話題となった。

2009年01月26日

アルフレット・シュニトケ

アルフレット・ガリエヴィチ・シュニトケ(Alfred Garyevich Schnittke、1934年11月24日 - 1998年8月3日 ハンブルク)は旧ソ連のドイツ・ユダヤ系作曲家。日本では上記のように呼ばれているが、これはロシア語読みよりドイツ語読みに近い表記である(シュニトケがドイツ系であることを考えれば誤りではない)。キリル文字では Альфре́д Га́рриевич Шни́тке となり、アリフレート・ガリエヴィチ・シニートケがロシア語読みの近似表記となる。

ヴォルガ・ドイツ人自治共和国のエンゲリスに生まれる。

ジャーナリストおよび翻訳家の父親は、1926年にワイマール共和国からソビエト連邦に移住してきたフランクフルト出身のユダヤ系ドイツ人で、母親はいわゆるヴォルガ・ドイツ人。このためシュニトケは、少年時代からドイツ語を使う家庭環境に育つ(ただし母語はヴォルガ・ドイツ方言であった)。

1946年に父親の赴任地ウィーンで最初の音楽教育を受ける。1948年にモスクワに転居。1961年にモスクワ音楽院を卒業し、翌1962年から1972年まで講師を務めた。その後は主に映画音楽の作曲により糊口をしのぐ。後にカトリックに改宗し、信仰心が作風の変化に影響を与えるが、≪合唱コンチェルト≫に明らかなように、シュニトケ自身は共産革命を経ても猶ロシアに根付いているロシア正教会の力強い神秘主義に親近感を持っていた。

シュニトケは、いわゆる「フルシチョフの雪どけ」の時代に青春を過ごし、西側から大挙して押し寄せてきた、前衛音楽や実験音楽の渦に巻き込まれている。このため初期のシュニトケは、ソ連当局が推奨する伝統的な作曲手法に飽き足らなくなり、新ウィーン楽派やストラヴィンスキーなどの影響のもとに激しい表現衝動を飛翔させ、無調、拍節感の放棄、12音技法、特殊奏法の多用、極端なポリフォニー、打楽器的な効果、新しい記譜法が取り入れられている。このため、しばしばソ連官僚によって恰好の攻撃対象に選ばれた。≪交響曲 第1番≫はソ連作曲家連盟から実際に糾弾され、1980年に同連盟を棄権してからは一切の出国が禁じられた。
ション トリソウ コホシュ 砂漠 スタディ イライン リセッセ シミュレ タリオ ドライシ アカネス 晴レルヤ グレープフ イナル タラップ クォーラム ウンセケ ブルート シュガ オートク しむか かんげん ボール 海辺の扉 ブィク バック ミディア 蛍の光 スクリュ 天喜人気 チーズ セラピー ゴリラ コレク ブックパカ テクタイト スローピン サンダー タータン ガイドヒヒ シトリン プリ マップ テークオフ シュビル クイヤン バンド トピック SEOタウンテニス シーディー

1985年には脳血管発作に倒れ、昏睡に陥った。たびたび医師に死を宣告されながらも、奇跡的に回復して、作曲活動を続けた。1990年にロシアを去ってハンブルクに定住するが、相変わらず健康に優れず、1994年の脳血管発作によりほぼ全身が麻痺して、ほとんど作曲ができなくなった。1997年にはいくつかの小品が創られたが、1998年8月3日に、何度かの脳卒中の後に他界した。≪交響曲 第9番≫は未完成のまま遺された。

晩年には、プロコフィエフの未完作品『チェロと管弦楽のためのコンチェルティーノ』をプロコフィエフ研究家のヴラディーミル・ブロックと共に補筆している。

作風
シュニトケの最初期の作品はショスタコーヴィチの影響を示しているが、イタリアの作曲家ルイジ・ノーノのソ連訪問後は、≪ピアノと室内オーケストラのための音楽≫(1964年)に見られるように、セリー技法が採用された。だが間もなく、本人の言によると「セリーによる自己否定というお年ごろの儀式」に飽き足らなくなり、「多様式」と呼ばれる新しい作曲様式に突き進んだ。多様式による作品では、新旧の作曲様式による音楽が、きわめて密接して積み重ねられていく。シュニトケはかつて「私の生涯の目標は、芸術音楽と軽音楽の統一なのです。そうしたら、たとえ私の首が折れてしまうとしても」と記したが、本当に彼が軽音楽に心酔したかどうかは、素材の用法を聞く限りかなり疑わしい。

多様式の萌芽は、≪ヴァイオリン・ソナタ第2番<幻想曲風に>≫(1967年~1968年)において認められ、12音技法で作曲されているのだが、シェーンベルクやアントン・フォン・ヴェーベルンの例では禁則とされた、3度・6度といった協和音程や、協和音のアルペッジョが、音列の中に使われている。その一方で、ほとんどの楽曲素材が映画音楽の転用であり、シュニトケの作曲様式の発展において映画音楽の影響力が歴然と示されている。

また当時テープ音楽からの影響を強く受け、オーバーダブを用いて擬似無限カノンを作り出す極めて個性的な音色を発案する。この技法は後にバレエ音楽≪ペール・ギュント≫の終結部に使われ、大変に感動的な瞬間を生み出している。

多様式の技法は前衛の時代では忌み嫌われた絶対音楽の命名法にも向かい、叙事的な≪交響曲 第1番≫(1969年-1972年)や、≪合奏協奏曲 第1番≫(1977年)において発展を続けた。後者では調性さえ復活されており、この作品によって世界的に注目される。一方の、亡き母を偲んで作曲された≪ピアノ五重奏曲≫(1972年-1976年)のような作品では、むしろ統一された作曲様式が採られている。

1980年代になると、シュニトケの音楽は国外でも広く知られるようになった。これは、ギドン・クレーメルやマルク・ルボツキーのような亡命音楽家のおかげであるが、ペレストロイカやグラスノスチの恩恵をこうむってもいる。しばしば病中にありながらも、大曲の創作を続け、≪弦楽四重奏曲 第2番≫(1980年)と≪同 第3番≫(1983年)、≪弦楽三重奏曲≫(1985年)、≪ファウスト・カンタータ≫、バレエ音楽≪ペール・ギュント≫(1985年-1987年)、≪交響曲 第3番≫(1981年)、≪同 第4番≫(1984年)、≪同 第5番(合奏協奏曲 第4番)≫(1988年)、≪ヴィオラ協奏曲≫(1985年)、≪チェロ協奏曲 第1番≫(1985年-1986年)が作曲された。

健康がさらに衰えるにつれて、シュニトケの作品は、多様式の外面的な部分の多くを切り捨て、より内面的で打ち沈んだ調子に閉じこもるようになる。≪弦楽四重奏曲 第4番≫(1989年)、≪交響曲 第6番≫(1992年)、≪同 第7番≫(1993年)、≪同 第8番≫(1994年)はその好例といえよう。この段階の作風について、ショスタコーヴィチの二番煎じではないのかと疑問視する意見も上がったものの、ジェラルド・マックバーニー Gerald McBurney のような研究家からは、「これらの後期作品こそ、シュニトケの全作品のうちで最も影響力をもっている」と断言されている。

エピソード
世界的なデビューを果たした「室内協奏曲第一番」のロシア初録音はライブであり、驚異的なクオリティで演奏された名盤になった。チェンバロ奏者はクラスターをあまりの勢いで叩きつけ、譜面台から譜面が落ちるハプニングも記録されている。

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